当山は、元総持院と号しました。弘法大師帰朝後、この美作の地に密教を広めるため、当山を建立し、一刃三礼にて彫り上げられた千手千眼観世音菩薩像を安置されたと伝えられます。
古来より西の高野、また二宮高野神社の奥の院と称せられましたが、永禄年間に福田玄蕃盛昌(毛利の武将)が桝形城を築き、寺を外衛として軍士の大半を住居させました。落城と共に寺も全焼するところとなりましたが、時の院主成瑜法印が、焼趾に草庵をいとなみ、法灯を守りました。現在別所と称する土地で、広大な敷地跡があり、昭和二十二年「金銅仏」が出土しております。後に三十八世覚清上人が檀越を説かれ、現在地へ再建されました。
津山に森氏が入封の後、当寺に帰依し、寺領百石が寄進されました。四十七世秀範上人の時、再度焼失しましたが、再建され、本堂の棟木に「寛延四年(一七五一)秀範七十二才これを建つ」の文字が見られ、現在の建物は二百四十数年の歴史を有します。
近世の高僧として知られる竺道契(じくのどうかい)師新弘栄師が住職でおられたことでも知られております。
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第七十二番
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