縁起によると、各地で戦功のあった藤原景清が将軍足利義詮から恩賞として当山の地を賜り、館を構え母と暮らしていました。やがて、武勇にすぐれ衆望厚い景清は、出世を妬んだものに謀殺され、悲歎にくれた母も後を追うように亡くなってしまいました。
これを哀れんだ叔父の景明は、景清母子の亡がらをねんごろに山内に葬り、弔いのため仏門に入ることを決心し、剃髪しました。そして、館を精舎としてご本尊を求めていた景明は、二宮村円通寺の地蔵尊を玉甫上人に乞い、当山のご本尊として安置しました。
この地蔵尊は、弘法大師が諸国を行脚の折、疫病が流行しているこの地で、人々の苦難する姿を目の当たりにされ、平癒祈願をするために刻まれた地蔵菩薩とされています。
この時貞治六年(一三六七)、玉甫上人を一山の開基とし、景清山寳性寺往生院と名付けられたと記されています。
以来、藤原景清一族の位牌とお墓を供養するお寺として、現在に至っています。
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第六十一番
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景清山
往生院
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